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受け入れるということ [コラム]

東京駅で、目の見えないおばあさんと、その息子さんらしい方を見かけた。
おばあさんはお手洗いに入ろうとしていたのだけれど、どう歩いて行ったらいいかわからずに、入口近くで息子さんに「どうしたらいいの?」と聞く。息子さんは、女子トイレの近くにいることが恥ずかしいのか、「いいから、行け。」とおばあさんをせきたてた。

「一緒に行きましょう。」
私が手を引いて案内してさしあげると、おばあさんは小さな高い声で、何度も「ありがとうございます。」とおっしゃった。
「どっちを向いて帰ったらいいですか?」
と聞かれ、うまく説明できなかったので、
「えっと・・・、待っていますから、一緒に戻りましょう。」
と、私。
おばあさんは、「見えない世界」に不慣れな様子なので、目が見えなくなったのは最近のことなのかもしれない。

おばあさんの不便さを思うととても切なくなるけれど、それでも、彼女はそういう、普通に考えたら失意に陥ってしまうような世界をあるがままに受け入れているように見えて、私は少し救われたような気分になった。丁寧だけれど、卑屈なところが感じられない。ただ、自然体。
それはとても偉大なことで、小さな細いからだのおばあさんは、とてもしなやかで強い人だと思う。 私に、それをうまく伝える術がなかったのが残念。でも、私が伝えようが伝えまいが、素晴しいものは素晴しいのだ。ただ、そのまま、あるがままで、素晴らしいことなのだ。息子さんや周りの人たちも、それに気づいているといいなぁ。

一緒にお手洗いを出て息子さんのところに行くと、息子さんも頭を下げてお礼を言ってくださり、お互いに雑踏の中に消えて行った。夜の東京駅。二人はこれからどこに行くのかな。

人はそれぞれいろんな状態の心を持っていて、対面する相手の心の状態のエネルギーを少なからず感じながら生きているように思う。 都会を歩くと、あまりにも人が多いから、みんな、他人の心のエネルギーを感じることを無意識的にやめようとするのかもしれない。そうしないとオーバーヒートしてしまうから?

でもそうやってシャットダウンしていても、ふとした瞬間に他人の心を感じてしまうときがある。シャットダウン中に急にぐいっと入り込まれると、なおさら衝撃が強くて、なんだかやられそうになる。
例えば、雑踏の中、誰かにぶつかりそうになって舌打ちをするような人に出会ったとき。そういうとき、ものすごいネガティブなエネルギーを感じて、おなかに黒いもやもやがたまるような気分になる。人はみんな良い心と悪い心を持っているから、たまたまそのとき悪い部分が出てしまっただけなのだろうけど。

(そう考えると、最近「突然キレる子」が多いって言われているのも、同じ論理だったりするのかもしれないなぁと思う。普段他人の心が入ってくるのをシャットダウンしてるから、つまり他人の心に寄り添わない癖がついているから、何気にぐいっと入り込まれたとき、あまりの衝撃に防衛本能でキレてしまうんじゃないかしら?)

おばあさんを見て、思った。
ものごとをあるがままに受け入れられる人は、心の状態もニュートラルなのかもしれない。辛い出来事にもひどく落ち込むことなく、他人の心の状態にも変に左右されることなく、ただそれをそういうものとして受け入れる。「悟る」ってそういうことだろう。
おばあさんは、そういう境地に近いところにいるのかな。そうだといいな・・・。悲しい気持ちを抱かずにいられるといいな・・・。

それでも、こう祈らずにはいられない。
どうかどうか、あのおばあさんが出逢う人たちがみんな、「優しい心の状態」でありますように。「悪い心の状態」の人とは、接点のない生活が送れますように。

私はというと、まだまだいろんなことに動じたり影響されたりうろたえたり落ち込んだりしてしまう。あるがままに受け入れるということができない。 でも、おばあさんとの出逢いによって、そう気づけただけでも大きな進歩だ。とてもありがたいことだと思う。
うまく振舞えなかったり間違えたり、反省することしきりだけど、家族や身近な人、それから袖触る仲の人達をも、もっともっと大切にしたい。
自分に起こる出来事に、そしてみなさんに、感謝します。


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