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メメント・モリ~私は、あきらめない。 [コラム]

 メメント・モリ(死を想え)。
 藤原新也氏の写真集のタイトルにもなっているこの言葉は、自分がいつか死ぬ存在であることを忘れるな、という警句だそうだ。死ぬ存在だから、「どうすべし」? ラテン語のこの言葉は、ある時代には「今を享楽的に生きるべし」と、また別の時代には「来世に目を向けるべし」と、全く異なる意味で使われてきたようだ。
 しかし、「今を享楽的に生きるべし」と言っては刹那に過ぎるし、「来世に目を向けるべし」と言っては今が疎かになってしまうように感じられる。語り継がれてきた言葉の背後には、私には推し量れない深遠さがあるのだろうけれど、どちらも何かを軽視しているようでなんだかしっくり来ない。

 私なりの「こうすべし」は、シンプルで月並みだけれど、「人はいつか死んでしまうから、今を一生懸命生きるべし」。いつか失われる生を思えば、今を大切に慈しむことができる。死という概念を受け入れてこそ、人は本当の意味で生と対峙できる。
 生と死は表裏一体のものだと私は思う。

 先日、ある少年が生きることにあまりにも投げやりな様子だったので、お説教よろしくこの言葉を教えてあげようと、「ねぇ、もし君の人生が明日で終わってしまうのだとしたらどう思う?」語りかけてみた。すると、少年からはこんな言葉が返ってきた。
「まぁしょうがないと思います。それはそれで別にいいです。」
 ショックだった。彼がそんなふうに思っていることも、私が彼の言葉を予測できなかったことも。

 しかし、考えてみれば当然なのだ。「生」に投げやりな人間は、「死」に際しても一生懸命になれるはずがない。360度回転して、やはり「生と死は表裏一体のものだ」、と私は逆に少年に教えられた。藤原氏は本書の中でこう述べている。「本当の死が見えないと、本当の生も生きれない。等身大の実物の生活をするためには、等身大の実物の生死を感じる意識をたかめなくてはならない。」

 私の好きな物書きさんは、「いいことも悪いことも交互に表れて、それらを味わってこそ心電図みたいな波ができる。味わえるってことは、生きているという証拠」というような言葉を教えてくれた。これを今の文脈に置き換えたら、こういうことだろう。「等身大の実物の生死を感じる」人は、躍動感のある心電図を持っている。そうでない人は、生と死の境目が曖昧で、今にも生の動きが止まってしまいそうな、振れ幅の小さな心電図を持っている。

 積極的に「死」を選ぶようなことをしないにしても、少年の「生」の火が消え入りそうなことを感じ、私は心を痛めた。そして、彼の半生を思う。辛かったろうね。辛いということさえ感じ取る気力がなくなるほど、辛かったろうね。
 それでも私は、彼の言動に、表情に、一差しの光を見つけることが出来た。自分の生を生きたいという、仄かな生の灯火を。そうやって見つけ出した生の灯火に、私は新鮮な酸素を送り込みたい。小さな火種を消してしまわないように、そっと、そっと。

「わたしは、あきらめない。」
 藤原氏の本書の最後は、こんな言葉で締めくられている。

 メメント・モリ。
 うん。私も、あきらめない。


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