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「お母さん」と「しこり」の雪解け [コラム]

 ふとしたきっかけで、ちょっと怖いおばさんと1週間あまり生活を共にした。このおばさん、「最近の若者は老人を大事にしない」なんてぶつぶつ言いながら、いつも何かに怒っている。私は彼女といると妙に緊張してしまって、「お姑さんと暮らすってこういう感じかしら」なんて密かに思った。ぷんぷん怒って、言いたいことをずばずば言っているこの小柄なおばさんは、とても強い人なのだろうと、私は初め考えていた。


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 そんなおばさんと生活を始めて5日目のこと。おばさんは、夜、しんみりとした口調で、「本当のこと言うとね、私ね・・・」と、おばさん自身の人生の苦労、生活の大変さ、心身の辛さや寂しさを語り始めた。どうして私にそんなことを打ち明けてくれるのだろうと思い、「強い」おばさんが突然見せた「弱さ」に戸惑ったけれど、話を聞いているうちに、私は、はっとした。怒りのエネルギーを放出している人は、哀しみとか辛さとかやり切れなさとか孤独感といった、触れたら思わずぎゅっと抱きしめたくなるような何かを殊更に抱いているのではないだろうか。「世間」とか呼ばれるような何かと戦わざるを得なかった人たちの心にできてしまった、「しこり」のようなもの。本当はその「しこり」に触れて欲しいのに、いつの間にか身に付けた戦闘モードの壁がじゃまをして、たやすく他人に触らせない。そしてピリピリとした戦闘モードは更に「しこり」を大きくしていく。そんな構造が、垣間見えたような気がした。



 私は、世間と戦う必要なんてなかった。ずっとぬくぬくとした日の当たる場所にいて、誰かに、何かに守られ、社会のメインストリートを歩かせてもらってきた。そして、差別や偏見や貧困のある、裏道とか細道とかサイドストリートのような世界があるなんて、(頭では分かっていたはずなのに、)どこか信じられず、現実味を帯びて考えられずにきた。私の知らない世界のなんと多いことか。私の見方は、なんと偏狭であったことか。おばさんはあの夜、私におばさん自身の「しこり」に触れさせてくれ、そのことに気付かせてくれた。


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 私はいつの間にか、おばさんのことを「お母さん」と呼んでいた。「お母さん」の手をマッサージしてあげながら、「今ここ」を生きる大切さについて語り合った。そうなんだ、本当にそうなんだ。過去を悔やんでいらいらしたり、未来を憂えたりすることは、ただの幻なんだから、手放してしまえばいい。そして、今ここを大切に生きればいいと、「お母さん」と確認し合った。「お母さん」も私も、今ここを生きることで、「しこり」をなくしていきたいって思っている。具体的に何かを話し合ったわけではないけれど、バックグラウンドの全然違う私たちは深く共感し合った、感じがする。


 翌日の瞑想中、私はある人にされた「酷い仕打ち」によってできた大きな「しこり」が、すーっと無くなるのを感じた。上手く言葉に出来ないけれど、1年以上にわたって私を苦しめていたあの「しこり」が、見事なほどきれいに溶解していったのだ。「しこり」を作ったのは私自身、そして私を悩ませていたのも愚かな私自身だった。
「お母さん」と過ごしたあの日々から2ヶ月が経過しようとしているけれど、その後、私はあの「しこり」に苦しむことはない。「お母さん」が「今ここ」を生き、「お母さん」の「しこり」も雪解けの時を迎えるよう、心から祈りたいと思う。

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